3ヶ月で目標達成!講師とカウンセラーが全力サポート!

運営者プロフィール

こんにちはRYO英会話ジムのリョウです。お忙しい中、わざわざ運営者プロフィールのページに足を運んでいただき、誠にありがとうございます。僕は、どういう思い、情熱で、事業に関わっているのかを少しでも感じていただけると幸いです。そして、こうして、ここでご縁があったことを感謝いたいと思います。

 

代表RYOのプロフィール

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RYO英会話ジム代表: 横田涼
/【代表】横田涼のプロフィール/
セブ&オーストラリアに留学し、7年間の海外勤務を経て、2019年にRYO英会話ジムを起業。

経歴:KLab株式会社で翻訳兼通訳者として勤務し、その後、Unhoop株式会社(大手英会話スクールhanaso)に転職。スタディサプリの有名講師、関正生さんと共同で自社メソッドを開発し、多くのヒット教材を制作。その後、講師やカウンセリングも担当。さらに株式会社Alueに転職し、三菱UFJやUNIQLOなどの大手日系企業向けに短期集中ビジネス英語研修を提供し、数百名以上の「英語が話せる日本人」を育成。

/RYO英会話ジムのアピールポイント/
1. 業界No.1の圧倒的なアウトプット量
2. レッスン内で発言内容の見える化&添削
3. 課題と改善策の具体化、目標レベルまで伴走
4. 英語コーチング業界最安値、高品質

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起業をするまでの人生

少年時代

小さい頃から、実家でホームステイをしていたため、外国人が家にいるのは珍しくありませんでした。母は英語の先生だったので、英語に触れる機会も比較的多かったです。しかし、子供の頃から英語が話せたわけではなく、ただ耳が慣れていただけだと思います。

ホームステイで知り合ったアメリカ人のシャーリーさんは、僕のキャリアに大きな影響を与えてくれました。当時、彼女は大学教授をしており、家に帰ってくるといつも「My boy」と言って可愛がってくれました。いつも英語で話しかけてくれましたが、全く話せない自分にどこかもどかしさを感じていました。学校で英語を勉強しているのに、なぜ話せないのかと思ったこともありました。

時間が経ち、中学生になってから家族でシャーリーさんに会いにアメリカのミネソタまで行きました。2週間ほど滞在し、他にもシアトルやロサンゼルス、カナダにも行きました。さらに数年後には、アメリカのハワイにも一緒に行きました。非日常を味わうその開放感が大好きになりました。

そんなシャーリーさんとの出会いが、後の自分の人生に大きな影響を与えるとは思ってもいませんでした。

中学時代

小さい頃から、親に連れられて山のハイキングに行っていました。その影響で足腰が強く、学年で短距離は1位、長距離走は全学年で1位でした。駅伝にも出場し、市の大会では長距離の代表としても参加しました。

また、バスケットボール部にも所属していました。中学1年生から始め、2年生になる頃にはレギュラーメンバーになれました。当時は勉強よりもスポーツばかりしていたことを思い出します。

今振り返ると、体を動かすことが本当に好きだったんだと思います。

暗黒の高校時代

高校時代は、とにかく楽しくありませんでした。親の勧めで兄が通っていた進学校に進みましたが、本当は国際学科専門の高校に行きたかったんです。今思えば、その時から自分の情熱に気づいていたのかもしれません。

なんとなく進んだ進学校は、まるで軍隊のようでした。場所も山奥で、実家から自転車で1時間もかかりましたが、毎日通っていました。信じられません。勉強ばかりの毎日で、正直うつ病のような症状になりました。高校2年までは無気力で、あまり

いい思い出はありません。人間関係もうまくいかず、悩む日々が続きました。

なぜこんなに楽しくないのか、ふと考えました。ある日、本屋で「人生をシンプルに生きる方法」という本を見つけ、すぐに購入しました。今では普通ですが、その本には「瞑想」の方法も書かれていました。当時は少し宗教的に感じましたが、興味が湧いて実践してみました。すると、心の中の雑念が消え、日々がどんどんスムーズになっていきました。

高校時代を通じて、心と向き合うことを学びました。残念ながら、受験勉強には失敗してしまいましたが。

大学生時代

大学2回生

僕の夢の始まりは、当時付き合っていた彼女がきっかけでした。ある日、彼女が「アメリカ人に日本語を教えるプログラムがあるから参加してみたら?」と言ってくれました。アメリカ人か… シャーリーさんを思い出しました。そういえば、昔英語を話したかったな、と思い、アメリカ人留学生に日本語を教えるプログラムに参加してみました。

そのプログラムにすっかり夢中になりました。日本語を教える楽しさもありましたが、それ以上に英語で意思疎通をする楽しさを感じました。辞書を片手に、いつも英語で話そうと努力しました。昔、英語が話せなかったことの反動もあったのかもしれません。そこから、国際交流の世界にどんどん引き込まれていきました。

大学3回生

21歳の頃でした。「流暢に英語を話し、海外の人々と出会って価値観を広げたい」という気持ちが強くなってきました。当時、私は大学3回生で、周りは就職活動中。そのため、遅れをとるという不安が大きくありました。しかし、思い切って2年間休学することに決めました。1年目はフィリピンで留学し、2年目はオーストラリアでワーキングホリデーをしました。周りの人たちとは違う道を選ぶことは大変勇気が必要で、不安も感じましたが、「今しかできないことをやりたい」という思いが強かったのです。

決断した後に見た景色は、本当に素晴らしいものでした。2年間で多くの異なる生き方をしている人々と出会い、それぞれの価値観に触れて、人生を最高に楽しむことができました。これは、私にとって英語を通じて様々な文化や人々の価値観に触れた貴重な2年間でした。

日本に帰国し、大学4回生として戻った時、同期の友人たちは皆卒業していて、自分だけがまだ大学生でした。周りの同期と同じように日本で働くことが自分のやりたいことなのか疑問を感じ、焦りも出てきました。そんな中、父のアドバイスで自分の直感に気づくことができました。

その時の話は別の記事にまとめているので、興味があればぜひご覧ください。「海外で通用する本物の英語を身につけ、世界で活躍できる人間になりたい!」という直感に気づき、自分の可能性を信じて卒業後、再び海外へ飛び立ちました。人材派遣会社を通じて運良くフィリピンの日系企業から新卒として仕事のオファーをいただき、海外勤務をスタートしました。

サラリーマン時代

フィリピンで働く目的はただ一つ、グローバルレベルで事業を行うために価値観やマインドセット、そして英語力を極限まで向上させることでした。英語を自由自在に使いこなせるようになるために、上場企業KLab株式会社で日本人駐在員とフィリピン人のコミュニケーションの架け橋として、1年間通訳兼翻訳者として勤めました。

その期間で、英語と日本語を瞬時に切り替える力が飛躍的に向上しました。その後、オンライン英会話スクールの運営ノウハウを学ぶためにhanasoオンライン英会話スクールに転職しました。カスタマーサポートと翻訳兼通訳の業務から始まり、英語力が評価されて教材開発部のリーダーに抜擢されました。さらに、スタディサプリのカリスマ講師関正生先生と協力して、社長とともにhanasoメソッドを開発し、数々のヒット教材を生み出しました。

市販の有名教材が多数ある中で、50%以上の生徒さんが私たちが開発したオリジナル教材を利用してくれたことに、仕事の大きなやりがいを感じました。その後、仕事の幅を広げさせていただき、講師やカウンセリングにも従事しました。正直なところ、ここまで英語を通じて多くの仕事ができるとは思っていませんでした。しかし、この経験を通じて「独立」という言葉が頭に浮かぶようになりました。

  • 「世界に向けて何か価値を創造したい」
  • 「英語を通じて、多くの人に新しい価値観を提供したい」
  • 「もっと人生の可能性を感じ、楽しく生きられる世界を作りたい」

そんな思いが溢れてきました。そして、同僚二人から一緒に独立して事業をやろうと誘われました。共にやろうと思いましたが、当時はまだ自分に自信がなく、会社員としてもう数年修行することを決意しました。

会社員生活最後の場所として、対面の英会話スクール運営のノウハウを学ぶため、日本を代表する名だたる大手企業20社以上に短期集中型のビジネス英語を提供しているAlue株式会社に入社しました。1年半でマネジメント力が評価され、部署のリーダーに抜擢されました。しかし、その頃にはすでに「独立マインド」が芽生え、退職の決意が固まりました。

独立を決意

32歳からの挑戦は、とてつもない不安との戦いでした。上司に思いを伝え、独立を決行しました。そして今、グローバル社会で通用する英語を自信を持って話し、人生の可能性を実現するサポートをするためにRYO英会話ジムを運営しています。

独立後

以上が、僕のRYO英会話ジムを運営するまでに至る簡単な経緯でした。最後まで読んでいただきありがとうございます。さらに独立後の様子にご興味を持っていただける方は以下ボタンよりどうぞご覧ください。